睫毛の妖精

エックスの生まれたエテーネの国。シューは突如出現したこの国にひとり訪れていた。エックスはルシェンダに魔法の修行をつけてもらうため、グランゼドーラにしばらく滞在することになった。そしてサレも足手まといになることを嫌い、僧侶の修行するためにミリンのいるカミハルムイへ向かった。
そして残るシューは、治癒魔法の適性の無さを補うため医学の知識を学ぶことにした。
が、その前に。前から興味があった錬金術というものを知るためにエテーネの王都キィンベルまでやってきていた。売り子の女性に押されて買ってしまった錬金術で仕上げたという青いバラを持ちながら散策をする。
この街の人々は、薬などの生活用品を錬金術師たちから買って暮らしている。現代のアストルティアには無い便利な魔法道具のようなものもある。一歩間違えば悪事にも使えるだろう。
シューは一抹の不安を感じた。エックスの兄は、高度な錬金術を使い生命を生み出していた。キィンベルの錬金術師たちにも同じことが可能なのだろうか。
それは人間の規範を超えている。錬金術には興味はあるが、生命体を生み出すことに何故か嫌悪感を覚えた。
悶々としながら歩いていると、廃屋のような建物に出くわした。まるでいざなうかのように、入口の扉がキィキィと音を立てて動いた。勝手に入ってはいけないなと思いつつ、好奇心には勝てなかった。シューは廃屋の中へ足を踏み入れた。
当然ながら屋敷の主はいないようで、ホコリが舞い上がる。あちこちに本が散乱していた。地下室への階段を見つけ、少し咳き込みながら下りていく。実験道具のようなもの、大きな本棚に薬品棚。そして錬金釜。この屋敷の主はどうやら錬金術師だったようだ。
部屋を眺めて薬品棚を見た時、不思議なものを見つけて目が釘付けになった。近寄ってみると、それは小瓶の中に浮く小さな何かだった。人の形をしているが下半身が魚で、所謂人魚の姿をしていた。瑞々しい海藻のように揺れる髪に、海の色をそのままうつしたウロコは星のカケラのようにキラキラ輝き、そのヒレはアゲハ蝶のような形と色をしていた。こんな美しい生き物がこの世にいるものなのかと思わず瓶を手に取った。
そして、この小さな人魚は、シューのよく知る人物にとてもよく似ていた。
弱っているのだろうか、小さな人魚は不思議な色の液体の中で力なく浮いている。そっと机の上に置き、息を一つつく。椅子のホコリを軽く払って座る。
これが何なのかはわからない。でも助けたところで何になるというのだ。こんなちっぽけな、虫にも等しいもの。それに左目が告げる。これは魂のあるものではない。
またひとつ溜息をついたとき、瓶の中の人魚が瞳を開いた。空を閉じ込めたような、透き通った青い瞳がシューを見つめていた。悲しみに満ちた、縋るような瞳で。
シューはエックスから聞いていた錬金術師のことを思い出した。名前は確かゼフ。彼なら何かわかるかもしれない。
揺らさぬように小瓶を持ち、シューは部屋を後にした。たとえ虫を助けるようなものだとしても、放ってはおけなかった。偽善だと言われても構わない。ただ自分の心に従いたい。それだけのこと。

人目から逃れるようにやってきたゼフの店の扉を開けて、シューは中へと進む。正面には恐らく店主と思われる男性がいる。人の良さそうな顔をして出迎えた店主に、シューは少し警戒したが、エックスが頼っていた人物なのだからきっと大丈夫だと言い聞かせた。

「いらっしゃいませ〜っ! どんなごようですか〜っ!」

足元にやってきた小さなピンクのリスに少し驚いた。この瓶の中にいるものと同じように、魂の形が視えない。これが魔法生物というものなのか。

「チュラリス、お客様を驚かせてはいけませんよ。すみません、私は店主のゼフと申します。どういった御用件でしょうか」

シューは懐から恐る恐る小瓶を取り出した。

「これは……魔法生物、ですか?」
「いえ、偶々見つけたものです。何なのかは俺にもわかりません。ただ弱っているようで」

カウンターに置かれた小瓶でたゆたう人魚のような生き物をゼフはまじまじと見つめた。何かに気付いたようにはっとしたがすぐに元の表情に戻る。

「……あなたはこれをどうしたいのですか?」

ゼフにそう問われ、シューは返答に窮した。心を見透かされている。瓶の中の小さな命を見て、ただ助けたいと思った。エックスならば、きっと迷わずに言うだろう。

「助けたい」

真っ直ぐにそう言ったシューに対し、ゼフは微かに笑みを見せた。

「わかりました。少し調べてみますのでお待ちください」

来客用のソファを指され、シューはそこで待つことになった。ゼフは瓶を預かるとそのまま店の奥へ消えていった。買った青いバラを眺める。こんなに憂鬱な気分になるのは、やはりあの小さな人魚が見知った者に似ていたからなのだろうかと自嘲気味に笑った。
そう、あの小さな人魚は、エックスにとても似ていたのだ。

しばらくすると、ゼフが小瓶を持ち戻ってきた。

「お待たせしました。まず結論から言うとこれは魔法生物です」
「魔法生物……」

嫌な言葉だった。しかし、今はそこをどうこう考えている場合ではない。

「液体を分析しましたが、これは錬金術で蒸留した水です。衰弱しているのもこれが劣化していたのがひとつの要因でしょうから、ひとまず取り替えておきました」
「ありがとうございます」

いえいえ、と穏やかに笑うゼフの表情が曇る。瓶の中で眠る人魚が目を覚ました。くるくる泳ぎ周りを見回してシューを見つけるとじっと見上げてきた。

「少し元気になったのかな。……そういえば、餌……」

言ってからはっとした。餌なんて言い方は良くなかったか。ふと瓶を見ると、小さな人魚が不満そうな表情をしている。見れば見るほど、エックスにそっくりだ。

「言葉はわかるみたいだな。ごめん、悪かった。君は食事はするのかな」

人魚はシューが持っていた青いバラを指差した。

「こんなものを?」

シューは青いバラの花びらをむしって細かく千切り、瓶の蓋を開けて中へ散らした。降ってくる花びらを小さな手で掴み取り、それを口に運んだ。

「なるほど、錬金術で作ったバラが主食ですか」
「金のかかる妖精だな」
「この子はあなたが引き取るんですよね? ならば材料を用意していただければ無償で水の交換をしましょう」
「それは……有り難いですが、大丈夫なのですか」

シューの心配をよそに、ゼフは笑ってみせた。

「ええ、お陰様でこの店は繁盛していますから。それにあなたは魔法生物を保護してくれましたから」

チュラリスがテーブルの上に飛び乗った。正直可愛い顔ではなかったが、なんとも言えない可愛さがあった。シューがふっと笑いながら撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じる。魔法生物とはいっても、動物や魔物たちと何も変わりは無い。だからこそ無責任に軽々しく命を生み出すことを嫌悪した。ゼフのような錬金術師ばかりではないだろう。
その横で、撫でられているチュラリスを羨ましそうに見ている小さな人魚がいることに気付いたのはゼフだけだった。

「しかし、その瓶では手狭でかわいそうですね」
「大きめの水槽に移し替えてやります」
「そうですか、ではその分の水を用意しましょう。材料の調達をしてくだされば……ですが」
「ええ、もちろん。何から何までありがとうございます」

ゼフは必要な材料を書き出しシューにそのメモを渡した。割とすぐ揃えられそうなものばかりで助かった。瓶を店に預け、シューは材料を集めに向かった。
置いて行かれたと思ったのか、小さな人魚は慌てるようにその美しいヒレを動かして瓶に張り付く。

「そんなに心配しなくても、すぐに戻って来ますよ」

ほっとしたように大人しくなったのを見て、ゼフは笑ったが、またすぐに表情が曇った。



エックスが福引で当てたマイタウンには、釣った魚を入れておくアクアリウムのようなものをひとつ建てていた。地下全体がガラス張りの、美しい南の海を模した水槽になっていた。
一番下まで下りて瓶をテーブルの上に置く。初めて見る景色なのか、小さな人魚は目を輝かせてあたりをきょろきょろ見回している。

「本当は君をこの中で自由に泳がせてやれればいいんだろうけど、さすがに無一文になってしまうからな」

シューが笑うと、小さな人魚は首を傾げた。
釣り老師からもらった球体の水槽を倉庫で探す。我ながらひどい有様だと思ってしまった。なんとか中型の水槽を見つける。このくらいのサイズならば広々と泳げるだろうし、もらってきた蒸留水もちょうどいい量だ。
準備をして瓶の蓋を開け、水槽の中へ沈める。小さな人魚は恐る恐る瓶から頭を出し、安全だとわかると飛び出していった。
ヒレを蝶のようにゆらめかせ、嬉しそうに悠々と泳ぐその姿は美しく、また可愛らしくもあった。
火が消えたような場所でひとり勉強をするより、喧騒を眺められるところでやりたかったから、宿を転々としようと思っていた。だが、これならばここでも捗りそうだとシューは穏やかに笑った。





気が付くと誰かに手を引かれて闇の中を進んでいた。足がついていない。水の中を進んでいる。不思議と苦しくはない。暗い暗い水の中をどんどん進んでいく。でも、恐怖心はなかった。どれだけ進んだのか、突然闇が晴れて眩しさに目を瞑った。
目を開けて広がった景色は、美しい海の底だった。どこまでも続くエメラルドグリーンのカーテンに鮮やかなピンクの珊瑚礁、色とりどりの魚たちが踊るように体を揺らして泳ぐ。夢を見ているのかと思ったが、いや、夢なのだろうが、それにしてはやたらとリアルだ。
唖然としていると、視界の中に見知った顔が飛び込んで来た。エックス、と声を上げそうになったが、それが別人だということにすぐに気付いた。あの美しい魔法生物、瓶の中の小さな人魚。でも、今目の前にいるのは自分と同じくらいの、青年の姿をしていた。小さな姿のときでも美しかったウロコやヒレは、より鮮明になり、息を呑んだ。彼は驚くシューの顔を、海の宝石のような瞳で覗き込むと、悪戯っぽく笑って海の中を泳いでみせた。そのウロコは天から降り注ぐ光が当たる度、星のように様々な色に煌めいた。珊瑚も、魚たちも、御伽噺の人魚すら恥じらうような美しさだった。

「綺麗だな……」

心の底から出た言葉を呟きながら、気持ち良さそうに頭上を泳ぐ彼を目で追った。




はっと顔を上げた。机の上に散乱した医学書やらノートを見回す。

(眠っていたのか……)

勉強しながら居眠りをしてしまったようで、ランプの薄明かりと水槽の光がぼんやりと辺りを照らしていた。側に置いていた水槽の中ではあの小さな人魚が体を丸めて眠っていた。今の夢は、彼が見せてくれたものなのだろうか。

(君はなんのために作られたんだ?)

言い知れない不安を抱えながら、シューは水槽にそっと手を触れた。



それから何日かが経った。人魚の見せる夢は心地よく楽しいもので、悪夢を見る事の多いシューにとって、それは救いであった。ある日、そろそろ水槽の水を取り替えようとキィンベルへ向かうことになり、ついでにヴェリナードで医学書を借りて来ようと予定を立てた。

「少し長い時間留守にする」

そう声を掛けると、小さな人魚は慌てたように水槽を泳いで近寄ってきた。首を横に振って引き留めようとする。

「……ワガママだな」

困ったように笑ったシューは、水槽を開けて少しだけ指先を水の中に入れた。小さな人魚はすぐにやってきてその指に縋りついた。ぎゅっと抱き締めて顔を擦り寄せる。何とも言えない切ない気分になり動けずにいると、指を離れた彼は自分が入っていた瓶を指差した。

「これに入れて連れて行けってことか?」

ニコニコ笑いながら頷く人魚に、シューは溜息をつくと微かに笑った。



ヴェリナードに着いたシューは、城の中にある知識の間へ向かった。道具鞄の中にはあの小さな人魚の瓶が入っていて、かなり神経質になった。ルーラストーンは使わず、方舟を乗り継いでここまでやってきた。車窓に瓶を置き、初めて見る様々な景色に喜んでいたが、周囲に見つからないかと気が気でなかった。魔法生物は現代のアストルティアには伝わっていない。いや、魔法生物でなくとも、この小さな人魚が人目に晒されてしまったら何が起きるかは火を見るより明らかだ。
知識の間でさっさと用を済ませそそくさと城を離れる。魔法戦士団の連中に出くわさなかったのは幸いだった。流れる汗を拭い、そっと鞄の中を見る。瓶の中で動いている人魚を見てほっとした。シューはふと思い立ち、ある場所へ向かった。
海岸へやってきたシューは、白い砂浜に座り込み、着込んでいた服を少しはだけさせる。好きになれない色白の肌があらわになる。海風が心地よく熱を奪ってくれた。隣に置いた瓶を覗き込むと、小さな人魚は青い海を食い入るように見つめていた。一体何を考えているのだろうか。彼が生まれた場所は間違いなく錬金釜の中だ。海に焦がれるなんてことがあるのだろうか。
けれど、いつも見せて来る夢は確かにきれいな海の中であった。本当はあの広い海に帰りたいとずっと思っているのだろうか。
帰したくても帰せなかった。彼はこの狭い瓶と、水槽の中でしか生きられなかったから。
ゼフの店で替えの蒸留水を受け取り、ようやく帰路へつく。水を取り替えてやると、嬉しそうに元気よく泳ぎまわっていた。無邪気に泳ぐ小さな人魚を見て、心が絆されていく。水槽の横で、シューは借りてきた医学書を開いた。しかし、疲れていたのかすぐにうたた寝をしてしまった。水槽の中から向けられる熱を帯びた視線には、気付くことはなかった。

そのままの状態で朝を迎えてしまったシューは、気怠い体に鞭を打って立ち上がった。変な体制で寝ていたからか体中が痛い。ふと水槽に視線を向けると、小さな人魚は既に目を覚まし嬉しそうに寄ってきた。彼は今日も美しい夢を見せてくれた。

「おはよう。早起きだな。エックスとは大違いだ」

エックス、という名前に、小さな人魚は首を傾げた。

「ああ、エックスは俺の……大事な人だ。君に瓜二つなんだ。だから君を見つけたときは本当に驚いた」

シューは、ふっと穏やかに笑った。その笑顔が水槽の中にいた小さな人魚の心を砕いたことを知る由はなかった。
その日から、シューがあの夢を見ることはなくなった。そして、水槽の中の小さな人魚は、少しずつ元気がなくなっていった。いつも元気よく泳ぎ回っていた彼は、水槽の中に置いた岩礁の上に座り込み、物憂げにしている。具合が悪いのかと聞いてみても、ただ首を横に振るだけだった。そんな様子を見たシューは、やはりここに連れてくるべきではなかったのかとひとり思い悩んだ。気紛れを起こして、一瞬の仏心のせいで、余計に苦しい思いをさせてしまったのだと己の浅はかさを恥じた。
指先を水の中に入れてみたが、いつも飛びついてくるのにやはり無反応だった。

「ごめん、俺は君を助けたいと思ってここへ連れてきてしまったが君にとっては不幸なことだったんだな……本当にすまないことをした。ゼフさんに引き取ってもらえるか話してくるから、どうか許してくれ」

それを聞いた小さな人魚は、弾かれたように顔上げ、凄まじいスピードで泳ぐとシューの指にしがみついた。激しく首を振って引き止める。何も問題はないとアピールするかのように泳ぎ回ると、再び指に抱きつく。その小さな瞳からは涙が零れ、とけていった。

「ここにいてくれるのか?」

シューの問いかけに、小さな人魚は何度も頷いて指にしがみついた。

その日の夜、ベッドに寝転がりながら、シューは水槽を眺めていた。この魔法生物を作り出した者は、一体なんのために作ったのだろう。こんな狭い世界でしか生きられない、美しくてかわいそうな生き物。これからどうしていけばいい?こんな時、エックスやサレがいたらなんて言うのだろうか。
そのまま眠ってしまったらしく、気付くとあの夢の中にいた。久し振りの夢だったがあの人魚の姿が見当たらない。しばらく探し回っていると、岩の上に座り込み、天を見上げる彼の姿を見つけた。ああ、やはり美しい。なんのために作ったのかなんて、最早どうでもいいと思った。

「どうしたんだ」

声をかけて隣に座る。しかし、彼は顔を背けてそっぽを向いた。シューは、この様子を前に見たことがあった。エックスが拗ねた時にそっくりだ。そうか、拗ねているのか、とクスリと笑う。シューは光が注ぐ水面を見上げた。

「子供の頃は、海の生き物になりたいと思っていた」

思わぬ言葉に、人魚は振り向く。

「魚や貝になれば、自由に広い海を泳いで、人に傷付けられることもないと思った。まあ、実際は食べられたりするんだけど」

その横顔を、美しい人魚はただじっと見つめていた。空の宝石のような青い瞳を潤ませて。

「ありがとう、君はその夢をかなえてくれた」

優しい笑顔を向けられた時、人魚の瞳から涙が零れた。驚いて言葉をかけようとしたが、それは彼によって封じられてしまった。
そっと顔に触れて、口付けを交わす。一瞬戸惑ったシューだったが、夢の中のことだと、そのまま身を任せた。そして彼が何を拗ねていたのかようやく気付いた。エックスを重ねて見ていたことで傷つけてしまっていた。シューにとって彼は庇護対象でしかなかった。でも、彼にとってはそうではなかった。どんなに小さくても、魔法生物でも。
唇が離れ、人魚の口が動く。

「え……?」

聞き取れなかった。人魚は無邪気に笑うとその場を離れて泳ぎ去る。追いかけようとしたが、突然息が苦しくなった。
待ってくれ。と声を出したはずなのに、それもかなわなかった。

身体がびくりとはねて目を覚ました。汗が冷えて体を震わせる。久々に見た夢だったが、嫌な終わり方をして大きく息を吐いた。そして、水槽を見て凍り付いた。息が止まる。岩の上で小さな人魚がぐったりとしている。シューは慌ててベッドから這い出し、水槽へ近付く。何度叩いても目を覚ますことはなく、心臓はけたたましく鳴り、息が荒くなる。冷や汗が噴き出した。震える手で水槽の中からすくい上げた小さな人魚には、生命の温もりが感じられなかった。それは紛れもない死であった。
声を上げることもできないまま、人魚は手のひらで泡となって消えていった。後には海を固めたような、美しく輝く涙型の宝石が残されていた。


何も手がつかず、ただ一日中宝石を眺めるといった腑抜けた日々が数日間続いた。しおれた青いバラから花びらが落ちる。蒸留水で満たされた水槽も、今は濁っていた。ついこの間まで美しい人魚が自由に泳ぎ回っていた水槽。シューはその水槽に向かって拳を突き出した。凄まじい音を立てて割れた水槽からは水が暴れて床を水浸しにした。

「シュー!? いるの? 今の音なに? どうしたの!?」

上から声がして、シューははっとした。階段を駆け下りてきたのはエックスだった。水槽が割れた音を聞いて慌てた様子で駆け寄る。憔悴し、やつれたシューを見てエックスも青ざめた。

「何があったんだ、こんなになって……」

シューは心配しすぎて声を震わせるエックスをまじまじと見つめた。涙を残して消えてしまった、あの人魚の姿が重なる。堪らずエックスを引き寄せてぎゅっと抱き締めた。縋ると言ったほうが正しいかもしれない。肩に顔を埋めて体を震わせた。その深い悲しみが伝わったのか、エックスは何も言わずにシューの背中を摩った。

「落ち着いた?」

ベッドに腰を掛けたシューの隣に座り、エックスは心配そうに声をかけた。

「ああ……ごめん」
「謝ることないよ」
「……どうして急に戻ってきたんだ?」

シューが訊ねると、エックスは少し迷ったあと答え始める。

「ここ最近ずっと変な夢を見てて……よく覚えていないんだけど。でも君が出てきてたのだけは覚えてるんだよ、楽しい夢だったけど、なぜかすごく切ない思いをしてた……それが急に見なくなったから、何か胸騒ぎがして」

シューは目を見開いた。それは恐らくあの人魚が見せていた夢だ。でもなぜエックスが同じ夢を見ていたのか。ますますわからなくなった。あれは、一体なんだったのだ。誰がなんのために、あんな、悲しい生き物を作ったのだ!
苦しそうに頭を抱えるシューをエックスが宥める。こんなに精神的に疲弊しているシューを見たのは初めてだった。

「僕のことより、君のことが聞きたい。何があったのか……」

大きな青紫色の瞳が揺れる。水槽の光だけしかない薄暗い部屋で、シューは瞬く間に過ぎ去った、小さな人魚といた日々を語った。切なくて胸が張り裂けてしまいそうな話を。
すべてを聞いたエックスは、シューに寄り添いそっと背中に手を回す。ただ何も言わずそうしてくれるのが、シューには有難かった。

「……明日はゼフさんのところへ行ってくる。世話になったからな」
「僕も行くよ」
「修行はいいのか」
「それより君が大事だから……」

エックスは甘えるようにシューに寄りかかった。

「ごめん。ありがとう……」

生きている証である温もりを感じながら、シューは目を閉じた。

翌日、シューはエックスと共にゼフの店へ向かった。あんなに良くしてもらったのに、自分のせいで寿命を縮め不幸に死なせてしまったことに後ろめたさを感じた。店にやってきたシューの様子を見て、ゼフはすべてを悟ったようだった。

「やはりこうなってしまいましたか」

その言葉にシューもエックスも困惑する。

「あの子は魔法生物として未完成でした。だから錬金術で蒸留した水の中でしか生きられず言葉も持たず、あんなに小さな姿だったのです。あなたに告げるかどうか迷いましたが……持って三日程度の命だった」

ゼフに告げられたシューは言葉を失った。

「しかしあの子はそれ以上に長く生きることができた。それはあなたのおかげです。どうかご自分を責めないでください。あなたと過ごせて、あの子は幸せだった筈です……」

ゼフの言葉に心に絡みついていた重い鎖がほどけてゆく。握り締めていた涙型の宝石は、より一層輝いて見えた。

「それは人魚の涙と呼ばれる宝石です。私も見るのは初めてですが……魔法生物は宝石を媒体にして作られます。あの子はその宝石から生まれたのですね。道理であんなに美しい姿をしていたわけです」
「ホントにキレイだ……」

エックスがシューの手を覗き込みながら呟いた。シューはそれをしまうとゼフに向かって頭を下げた。

「色々とありがとうございました」
「あまり力にはなれませんでしたが……それよりも、エックスさんのお知り合いだったとは」
「あれ? 言ってなかったんだ」

エックスはシューを横目で見た。

「あの子がエックスさんに似ていたので驚きましたよ」
「そうらしいですね……会ってみたかったなぁ。なんで僕にそっくりだったんだろう」
「不思議ですね」

二人はゼフに礼を言うと、店を後にした。途中で立ち止まったエックスに気付いたシューが振り向く。

「……僕はさ、魔法生物がいいとか悪いとか、難しくて答えは出せないけど、君は間違ったことしてないと思うよ。瓶の中で消えてく筈だった命を輝かせたのは君なんだから。よくわからないけど、なんとなくわかるんだ。幸せだったんだなって。変だよね」
「……いや、ありがとう。救われるよ」

悲しみが混じった笑みを浮かべるシューに、エックスが笑い返す。

「人魚の涙、どうするの?」
「俺に惚れてたからな。ずっと側に置いておく」

懐から人魚の涙を取り出したシューは、それを少し見つめるとそっと口付を落とした。好きになってくれてありがとう、と心の中で呟く。あれは魔法生物などではない、海の妖精。それでいい。

「それは、ちょっと妬ける」

膨れっ面になったエックスがシューを追いかけるようにして駆け出した。

美しくて悲しい、小さな人魚は、思い出と傷を残して海へ帰っていった。





シューとエックスが去ったゼフの店では、店主がカウンターで古びた日記を開いていた。これは異形獣にキィンベルが襲撃された際に亡くなった錬金術師の女性のもので、廃屋となった彼女の屋敷から見つけ出してきたものだった。
その一部にはこう記されていた。



ずっと憧れていた方の面影を持つ旅人がやってきた。
睫毛が一本あれば十分。これで私の願いは叶えられる。
言葉はただ一言。

愛してる。

たったそれだけがあれば、生きてゆける。

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